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今井恭司のサッカー千蹴写真館

西野朗 ‐ 華麗なプレースタイルの選手時代

1980年代、日立での試合にて

1980年代、日立での試合にて

西野朗さんは、長沼健さんが日本代表監督だった1974年、早稲田大学1年生の時に初めて日本代表に選出されました。

サッカー界の元祖アイドル

1974年8月2日、神戸中央球技場で行われた国際親善試合、ヘルタ・ベルリン戦(西ドイツ)で日本代表にデビュー。その3年後、二宮寛さんが日本代表監督を務めていた1977年3月6日、FIFAワールドカップアルゼンチン大会アジア地区予選のイスラエル戦で国際Aマッチに初出場。この時もまだ早稲田大学3年生でした。

 

まあそういうウンチクはともかく、本当に僕はみんなに百万遍言ってるのですが、西野さんはサッカー界の元祖アイドルだったんです。

 

浦和西高から早稲田大学に入って、関東大学サッカーリーグで活躍していた頃、あれはどことの試合だったか──確か中央大学との試合だったと思いますが──西が丘サッカー場で試合中に怪我をしてしまったんです。それで救急車がやってきて、ピッチの中には入れないからスタジアムの外で待機していたら、女の子たちがダーっとスタンドの上の方に数珠つなぎになって、救急車をじっと見守っていた。そこに西野さんが運ばれるのを見た女の子が本当に失神してしまったんですよ。「失神」って言葉があまり現実的じゃない時代なんだけど、大学サッカーが全盛期の頃で、1970年代だったけどすごい時代でしょ? 「サッカー界の元祖アイドル」なんて言ったら西野さんに怒られちゃうけど、ホントに郷ひろみさんとか西城秀樹さんとか、あんな感じのスター選手だった。

 

華麗なプレースタイル

とにかく、西野さんはすごく人気があったのと、当時としては珍しくプレースタイルが華麗でした。当時はどっちかと言うと、ガツガツとしたサッカーが主流だったけど、そういうタイプじゃないんですよ。言葉を選ぶとしたら「スマート」なんですよね。でも早稲田大学とかは特にそうだったけど、みんな結構「なにくそ!」って感じでガツガツ行くチームの方が多かった。その中で西野さんは「シュッ」とした感じだったから、先輩たちには結構しごかれたんじゃないかな。もちろんご本人はそんなこと言わないけど。

 

西野さんが早稲田大学1年生の時に、サッカーマガジンの表紙の撮影で練習場に行ったんです。そうしたら周りは先輩がいっぱいいるじゃないですか。そんなところで自分だけ撮影されるっていうのをすごく気にされていたようで、「ちょっと待ってもらえますか? もう少し待ってもらえますか?」って、先輩たちがみんな練習が終わっていなくなって、それでもまだ誰かが残っていたので「向こうの方でもいいですか?」って言って、伏見の練習場の隅っこの方、すぐ隣はラグビー部が練習していて薮が生えてるようなところに連れてかれた。

 

僕も表紙の撮影だからちゃんと撮らないといけないし、こんな場所で撮るのは嫌だなあと思っても、そうも言ってられないし……。でもやっとカメラの前で構えてくれて撮ったんですけど、笑顔とかそういうリクエストには「勘弁してください」って感じでやらなかった。シャイだったですね。これだけの選手だったらもっとみんな「俺が!」ってところがあるけれど、そういうのがない。周りにとても気を使う一面を西野さんは持っていました。

 

大学4年間はもう本当に人気も実力も兼ねたすごくいい選手だった。下の写真のように西が丘サッカー場にはたくさんのサッカーファンが観戦にやってきました。早稲田大学は碓井博行さんとかが先輩にいて強かったし、いつも優勝候補だった。早稲田か中央が強くて、中央大学には西野さんと同じ日立製作所(現在の柏レイソル)に進んだ高林敏夫選手がいて、いい勝負をしていた。在学している4年間は早稲田か中央かってくらいの感じでした。

 

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1970年代、早稲田大学での試合にて

 

西野さんのポジションは中盤なんですが、でも点も取るんです。当時の早稲田には前に碓井さんがいたから、トップ下みたいな感じのポジションで自分も上がっていくんです。それに当時としては背が大きい方だったし、やっぱりなにが違ったかと言ったら、とにかく非常に脚が長かった。当時サッカー選手は胴長短足のイメージだったけど、西野さんはスタイルが良くて、顔もよくて……とにかくプレーが華麗だった。

 

早稲田大学から日立製作所へ

日本代表監督だった二宮寛さんは、そういう西野さんのプレースタイルが気に入って、ワールドカップアルゼンチン大会アジア地区予選で日本代表に招集したんです。その時一緒に代表に入ったのが、法政大学4年生だった前田秀樹さん(東京国際大学サッカー部監督)。その頃の日本代表は早稲田大学でやっているようなサッカーとはだいぶ違って、二宮さんはドイツっぽい華麗なサッカーをやろうとしていた。そういうところで白羽の矢を立てたんでしょう。早稲田もどっちかというと無骨なサッカーをしていた中で、西野さんは華麗なサッカーをしていました。

 

早稲田大学を卒業して、日立製作所に加入してからも結構苦労したんじゃないかなと思います。やってるサッカーが日立製作所も無骨っていうと怒られるけど、当時は「走る日立」って言われていて、割と泥臭いサッカーをしていたから、そこのところはどうだったのかな。西野さんのサッカースタイルに合っていたのかどうかは難しいところです。

 

日立製作所に加入した1978年7月26日、第22回ムルデカ大会でのタイ代表戦を最後に日本代表に名を連ねることはありませんでした。 日立製作所では実働12シーズンで、1985年には日本サッカーリーグの8試合連続得点記録を達成しました。このシーズンは2桁得点もあげた。

 

釜本の8試合連続得点記録に並ぶ

このシーズンは釜本さんの連続試合得点記録をいよいよ西野さんが破るんじゃないかって言われていたけど、最終的にはタイ記録に終わって釜本さんの記録は抜けなかった。この時はそろそろ引退も近いんじゃないかって思われていたシーズンだったにもかかわらず、キレキレのプレーをしていました。釜本さんはワントップで、西野さんはどっちかというとトップ下か2列目から点を取る感じでしたが、釜本さんに並ぶくらいの得点能力を見事に発揮していました。

 

当時大学サッカー界のスター選手として頭角を現した選手たちは、「釜本二世」ってもてはやされては潰れていったりもしたから、そういう意味ではよくがんばったと思います。西野さんももうちょっと早くか、もしくはもうちょっと遅くかに生まれたほうがよかったのかな。

 

もうちょっと早く生まれていたら、日本代表としてはそれこそ全盛期の釜本さんとがっつりコンビを組んでプレーできたし、日立製作所の中でも松永章さんとかがいてリーグ優勝した時代にプレーすることもできた。もうちょっと遅ければ遅いで、木村和司さんみたいにスペシャル・ライセンス・プレーヤーになって、Jリーグ開幕までがんばれたかもしれない。ほんのちょっとの差だけど、もうひと花咲かせることができる可能性もあった。そのくらいすごくいいパスを出す選手だったんです。

 

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1977年3月26日、ワールドカップアジア地区予選韓国戦

 

最近の選手に例えると──最近じゃないしポジションも違うけど──ベッケンバウアー的かなって感じで見ていました。すっとしたいい姿勢で、ちゃんとボールをキープできて、視野が広くて、いいパスを出せる。日本人でいうと誰だろうね……。性格は全く違うけど、本田圭佑選手みたいな感じかな? あんなにガツガツはしてなかったけどね。ドリブラーというよりは華麗にボールをさばくっていう感じ。でも、なかなか彼の周りには自分がやろうとしているプレースタイルを理解してくれる人がいなかったんじゃないかな。わかってくれる相棒っていうか、よき指導者というか。

 

8試合連続得点記録を打ち立てたキャリアの最後の方で、厳しい先輩たちがいなくなって、やっと自分がやらなきゃいけないとか──もっと前から自分でやらなきゃいけなかったんだろうけど──そういう自覚が沸いてきたのかもしれない。

 

西野さんの選手としてのキャリアの後半は、読売サッカークラブ(東京ヴェルディ)とか日産自動車(横浜F・マリノス)が台頭していました。実業団の枠を超えたクラブチームが強くなってきた頃に現役生活を終えたわけですが、西野さんより前の世代の選手たちからよく聞いた話では、チームに入った20代前半の頃は身体も動いてたけどサッカーってものがよくわからなかった。30代になってもうちょっとで現役生活も終わりかなって頃になってからやっとサッカーがわかってきた。

 

前田秀樹さんはずいぶん前にそういうのがわかっていたって周りの人たちは認めていました。「あいつはあんなに若いのによくわかっている」って。でも一人だけそういう選手がいてもダメなんだよね。周りもみんなプレイヤーとして熟成されていないとダメなんだ。

 

ヨーロッパの強豪国の代表選手たちが招集されてもすぐにまとまった試合ができるのは、みんながそれだけの共通の認識を持っているからなんだけど、日本だとある程度時間をとって合宿してやらないとそういうのがなかなかできない。ちょっとでもモノがわかるのが速かったりする選手がいるとチーム力はクッと上がるけど、なかなかみんながそうはいかなかったんじゃないかな。ただいい選手の寄せ集めってだけで、歯車がうまくかみ合わない感じはありました。

 

当時よく日本のサッカーをどういうふうに表現するかと言ったら、「バレーボール方式」って言ったんです(1964年東京五輪で金メダルを獲得したバレーボール全日本女子は日紡貝塚女子チームが主体となった)。ひとつの強いチームを母体にして、パーツのように数人だけくっつけた方がいいチームになるんじゃないかって。それはある程度練習時間を費やさないと日本人はダメだってことだった。

 

代表クラスの選手たちをぱっと集めて「さあ、やれ」って言っても、なかなか高いレベルには達しない。クラブチームではすごくいい働きをするけど、代表にくるとパッとしないって選手がいっぱいいた。優れた個性を持った選手たちが集まった中で、本来の実力を発揮することがなかなかできなかった。選手たちをを統率する指導者にも問題はあったのでしょうけど、どうあがいてもレベルアップができない時代でもあったんです。

 

西野さんがキャリアの後半に活躍できたのは、プレースタイルも頭も柔軟な若い選手たちが入ってきて、西野さんの感性とか感覚が周りの選手たちの波長とあったからかもしれない。そこはご本人に直接聞いたことはないのでわからないけど……。

 

でもまあそういう話はともかくとして、西野さんはとにかくもてたし、とにかくかっこよかった。それは早稲田を出て日立製作所で現役を終えるまで変わらなかった。監督になってからもかっこよかったけど。

 

後篇につづく

 

2018/5/2

提供:スタジオ・アウパ

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このコーナーは毎週水曜日の更新です。

次回は2018年5月9日(水)の予定です、お楽しみに!

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