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今井恭司のサッカー千蹴写真館

都並敏史 ‐ 日本の元祖左サイドバック

1982年1月、日本代表対ボカ・ジュニアーズ戦での都並敏史選手

1982年1月、日本代表対ボカ・ジュニアーズ戦での都並敏史選手

この写真は、1982年1月、ゼロックス・スーパーサッカーでディエゴ・マラドーナ率いるボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)と日本代表が対戦した時の都並敏史選手です。

19歳で日本代表にデビュー

1982年1月16日、東京・国立競技場で行われたボカ・ジュニアーズとの対戦は、1対1の引き分けに終わりました。この試合の時、都並敏史選手はまだ20歳でしたが、インターナショナルAマッチ出場数はすでに10試合を数えていました。

 

日本代表デビューは、川淵三郎さん(現日本サッカー協会相談役)が日本代表監督時代の1980年12月14日の日本代表シニア戦。それにつづく12月22日、FIFAワールドカップスペイン大会アジア予選のシンガポール戦でA代表デビューを飾りました。キャリアの最後の頃は筋肉質で身体が大きくなっていましたけど、こうしてみるとマラドーナも都並さんも若い頃は結構華奢な体型でしたね。

 

都並さんは、日本代表としても共に戦った戸塚哲也さんと読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)では同期生ですが、私は彼が高校生の頃から知っているけど、とにかく熱いんですよ。自分が試合に出ない時なんかでも試合会場に行って、スタンドの最前列で、ハチマキを巻いて、一番大きな声を出して応援していたんです。

 

1979年に日本で開催されたFIFAワールドユース選手権大会の時でも、サポーターとしてスタンドの一番前で応援していた。いちサポーターとしてスタンドに来て、応援席で熱狂的に応援をしていた。本当にサッカーが好きで、日本代表を心の底から応援する熱いハートの持ち主なんだなって思いましたね。もちろん、試合に出場していても、控え選手としてベンチに入っていても大きい声を出すし、なんていったらいいんだろう……「サッカー好きな永遠のやんちゃ坊主」って印象があります。

 

都並さんは、たぶん子供の頃からずっと運動神経が良かったんだと思います。小さい頃から読売クラブでプレーしていましたが、親御さんは大変だったんじゃないでしょうか。当時は今ほど交通の便も良くなかったから、練習が終わる頃には親が送迎をしないといけなかった。そういう子たちの中で、ジュニアからジュニアユース、ユースを経てトップチームに残っていったわけです。その頃は、Jリーグの前身だった日本サッカーリーグは実業団が中心で、サッカーと言えば正月の全国高校サッカー選手権大会が全盛期でしたから、まだまだクラブ育ちが市民権を得るずっと前の時代でした。

 

読売クラブ育ちで日本代表へ

昔の読売クラブは、与那城ジョージさんとか、ラモスさんとか、小見幸隆さんとかがいて、小さいうちからそんな個性的な選手たちの中に若い選手たちもちょこちょこって入っていって、一緒にボールで遊んでもらっていた。そういう若い選手たちとトップ選手の垣根がないようなところでいろんなことを身につけることができた。

 

それだけではなく、読売クラブの選手たちは、仲間内でもみんなでいろんなことをお互いに遠慮しないで言いあいながら切磋琢磨していった。小さい頃からそういう特別な環境の中で影響を受けて、サッカーに対する姿勢も感化されていったんじゃないでしょうか。そういう意味では読売クラブのいいところを全部吸収して、すくすくと育っていったっていうことだと思います。ジュニアからユース世代を経て、ずっとクラブ育ちのままトップレベルの日本代表まで上り詰めて、長く第一線で活躍した第一世代なのかもしれない。

 

都並さんはちょっとO脚で独特なボールの持ち方で、緩急をすごくつけながら左サイドで相手を抜いていってセンタリングを上げるっていうのが昔から得意のプレースタイルでしたが、こういう職人技は今は当たり前だけれど、当時はそうそういなかった。あそこまで敵陣深く駆け上がるサイドバックの選手がいなかった時代でした。だからこういうサイドバックは重宝されたし、日本代表の強化のためにも必要とされた。

 

ボールを奪われたら死ぬまで相手を追いかける

それに加えて、読売クラブの選手たち、特に都並さんは飛びに抜けてそうだったけど、自分がミスってボールを奪われたら、死ぬまで相手を追いかけた。本当に「死ぬまで追いかける」っていう表現が間違いないくらい必死に食らいつく姿勢が素晴らしかった。戦術とかテクニックとかフィジカル云々以前の「戦う気持ち」も突出していたと思います。

 

当時、ユース年代の檜舞台だった「全国高校サッカー選手権大会」を経験していない読売クラブのユース育ちの選手たちが、一試合への勝負に対する執着心が異常なまでに強かったのは、一見意外にも思えます。松木安太郎さんたちも含めて、なぜあそこまで熱くなれたのか。ある意味、彼らの先輩のいい選手たち──与那城さん、ラモスさん、小見さんら──が、そういう気持ちを叩きこむ役割をしていたんだと思います。

 

若い選手だろうが関係なく、容赦しないでいろんなことを言って、そういうヌルくない厳しい雰囲気の中でやれたからよかったのかもしれない。後は、常にふるいに掛けられる中で、ジュニアユース、ユース、トップへと昇格できるか、落とされたらどうなるだろうかっていうことを考えながらプレーしなければならない、わりとシビアな世界なわけで、そういう中で、とにかく一対一では絶対負けないっていうメンタリティみたいなものがみんなに植え付けられていったのだと思います。

 

その一方で、この頃の読売クラブの選手たちは、周りと歩調をうまく合わせながらできる器用さ、そういうコミュニケーション能力も高かった。和気あいあいの仲良しってだけでない、ちゃんと言うことは言うし、言われることは言われる中で育つ強さを身に着けていた。今じゃ当たり前だし基本なんだろうけど、それができないとボールはこないし、試合でも活躍の場はなかった。

 

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1987年10月、ソウルオリンピックアジア地区最終予選中国戦での都並敏史選手

 

読売クラブと日産自動車の二強時代

1970年から1980年代にかけて、日本でサッカーが不毛だった時代に、これだけプロフェッショナルな選手たちが、クラブユースからニョキニョキと育っていったっていうのはある意味不思議な気がします。

 

日本サッカーリーグの最後の頃は、読売クラブの試合はどこへいって見てもおもしろかった。特に読売クラブと日産自動車の試合は面白かった。それは個々の技術が高いし、戦術的なレベルも高かったし、この2チームはいろんな懐を持っていました。

 

クラブの中で小さいながらも、パスがきてボールを持ったら相手をどうやって抜こうかとか、そういう駆け引きを徹底的に叩きこまれてきた選手たちを見てるだけでも面白かった。当時はバックパスなんてするとピッチの上で怒られていたんですよ。ボールを持ったら抜く、抜いてスペースを作ってからパスを出すとか、小さい時からやらされていたそういうプレーを見ているのが面白かったし、そういう一対一の真剣勝負がみれた。ひとりひとりの技術もそうだけど、勝負に対する考え方っていうのが伝わってきたんだと思う。

 

素晴らしい選手をたくさん輩出した一方で、どこかで新陳代謝ができなかったツケが今も尾を引いているのかもしれません。世代交代がうまくできなかったのもあるし、また彼らの下の世代の選手たちが、こういう上の世代の選手を引き摺り下ろすところまでいかなかったし、ある程度でき上った選手たちで、ずっと何年もやってしまった。ペレイラとかビスマルクとか結構いい外国人選手たちも入ってきて、彼らもいい働きをするから、上の世代の選手たちが歳をとって平均年齢があがっても、うまく埋め合わせができてしまった。そういうツケが今になってきたのかもしれないです。

 

ただ、そのくらいいい選手たちが揃っていたっていうことで、いい時代だったのは間違いない。その中でも最たるものです、都並さんは!

 

日本代表の左サイドバックと言えば都並さんだった

1993年のFIFAワールドカップアメリカ大会アジア地区最終予選、いわゆる「ドーハの悲劇」の時、都並さんが万全の状態だったら、もしかしたら予選を勝ち抜けたかもしれないし、ワールドカップ初出場の夢が叶ったかもしれない。「もしかしたらギリギリ間に合うんじゃないか」「大事な試合で使えるんじゃないか」って怪我を承知の上で、ハンス・オフト監督は都並さんを連れて行きましたからね。やっぱり使いたかったんですよ、オフト監督は……。

 

1980年から日本代表でバリバリ活躍してきて、オフト監督時代は本当に最後の挑戦でもありましたし、横山謙三監督時代を除いて、1995年の加茂周監督時代まで、正味15年間、日本代表の左サイドバックと言えば都並さんだった。サイドバックに特化したタレントで、彼を超える人材が15年間出てこなかった、と言っても過言ではなかった。

 

後から聞いた話ですが、一説によると何度も故障した箇所はもう完治しないくらいの怪我の状態だったらしい。でもね、彼のプレーは楽しかったですよ。

 

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1985年3月、日本代表対北朝鮮戦での都並敏史選手

 

森孝慈さんが監督時代のFIFAワールドカップメキシコ大会アジア地区1次予選、雨の北朝鮮戦の写真からも、サッカーがうまいオーラが見えてきませんか? スピードとテクニックがあったし、とにかく気持ちというか気迫がものすごかったよね。そんな気迫のこもったドリブルで、サイドからスルスルスルって上がっていってっていうのがやっぱり一番の彼の魅力じゃないかな。

 

監督(仙台、セレッソ大阪、横浜FC)としてはなかなか結果を出すことはできなかったけど、今もブリオベッカ浦安のテクニカルディレクターを務めていらっしゃるし、息子さんたちも活躍している。

 

しかし、マラドーナはこんなにスリムだったけど、太ももはすごかった。こうしてみると都並さんの太もももマラドーナに負けないくらい太かったんですね。

 

2018/4/11

提供:スタジオ・アウパ

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このコーナーは毎週水曜日の更新です。

次回は2018年4月18日(水)の予定です、お楽しみに!

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