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今井恭司のサッカー千蹴写真館

碓井博行 ‐ 幻の日本人プロサッカー選手第1号

日立製作所対古河電工戦でディフェンスラインを突破する碓井博行選手

日立製作所対古河電工戦でディフェンスラインを突破する碓井博行選手

この写真は、日本サッカーリーグ時代の日立製作所(現柏レイソル)対古河電工(現ジェフ千葉)戦で、力強いドリブルで古河電工陣内に攻め込む碓井博行選手です。(撮影年月日は不明)

早稲田大学在学中に日本代表デビュー

碓井博行さんは、早稲田大学ア式蹴球部出身で、同じく日立製作所で活躍された西野朗さん(現日本サッカー協会技術委員会委員長)の二年先輩にあたります。彼らが在学中は、とにかく大学サッカーが全盛期でした。国内のトップリーグだった日本サッカーリーグよりも大学サッカーの方が人気があったくらいです。決して大げさでもなんでもなく、大学サッカーの主要な試合会場だった国立西が丘サッカー場(現在の味の素フィールド西が丘)にお客さんが入りきれないようなこともあったんです。だから当時は西ヶ丘サッカー場を拡張してもらおうっていう話も実際にあったくらいでした。

 

碓井さんは、早稲田大学在学中の1974年2月ジュベントス戦(ブラジル)で、長沼健監督率いる日本代表にデビューし、続くシンガポール戦で国際Aマッチにもスタメンで出場を果たしました。そして鳴り物入りで日本サッカーリーグに所属していた日立製作所サッカー部へと進みました。

 

日立製作所に入ったばかりの1976年開幕前に、日立は日本のクラブチームとしては珍しく、ヨーロッパ遠征を実施しました。このヨーロッパ遠征は確か「日立カップ(Hitachi Cup)」という名称で、日立製作所がスポンサーになって、ヨーロッパ四カ国で現地のクラブチームと親善試合を開催したように記憶しています。フィンランド、ノルウェー、ベルギー、オランダで試合は開催されたのですが、どういう意図のカップ戦なのかは正直なところよくわからない親善試合でした。

 

日立製作所は当時も今も世界企業ですが、開発拠点を展開していたヨーロッパ各国で、日立のブランドをアピールする目的と、自らの実業団チームの力試しみたいな感覚でこのイベントを始めたのかもしれません。いずれにしても実業団チームが中心だった当時の日本サッカー界でもおそらく初めての試みだった。ただ開催されたのはこの年一回限りだったようです。

 

オランダのクラブから獲得のオファー

当時、日立製作所サッカー部の監督は日本代表監督も務めた高橋英辰さんでした。おそらく指導者として一番長く日立に関わった方で、「走る日立」を作り上げた名監督でしたが、この遠征中にオランダで対戦したクラブ、確かAZ(アーゼット)だったと思うのですが、そこの監督から試合が終わったあとで「碓井選手を獲得したい」とオファーがあったそうです。

 

とにかく、リップサービスでも何でもなく、本当にちゃんとしたオファーだったそうで、高橋さんとしては断腸の思いでオファーを受け入れることはせずに、碓井さんを日本に連れて帰ってきました。それは後になってから相当悔んだに違いないと思います。

 

当時のオランダは、ヨハン・クライフを中心にしたトータルフットボールで旋風を巻き起こしていて、世界のサッカー界をアッと言わせていた時期だったし、碓井さんも移籍に関しては前向きだったらしいのですが、高橋さんがいろいろ根回しして会社に獲得の要請をして、ようやく入団に漕ぎつけた大学サッカー界のスター選手を、さすがに日本国内デビュー前に日本サッカーリーグに1試合も出場させることなく、オランダのクラブチームに移籍させるわけにはいかなかった。

 

この時、監督の高橋さんも、選手の碓井さんも日立製作所の一員だったわけで、ヨーロッパ遠征中も騒がれると困るからあまり大っぴらにすることもなく、ただ碓井さんの去就をどうするか、水面下では判断を迫られていた。現地では直談判みたいな感じで、日立と本人が了承すれば、あとは書類を書いてサインするだけだったそうで、今にして思えばよく踏みとどまったと言うべきか、なぜ思い切って移籍に踏み切らなかったと言うべきか・・・。

 

奥寺康彦のケルン移籍の一年前

あの時、オファーを受け入れて碓井さんがオランダに移籍していたら、その後の彼のサッカー人生と日本のサッカー界がどう変わっていたか。メキシコ五輪で大活躍した釜本邦茂さんも海外に移籍してなかったし、奥寺康彦さんが1977年にケルンに移籍する前の年だった。ガマさんもよくよく話を聞くと海外からの移籍話はそれほどちゃんとしたオファーではなかったようなことをご本人も話してらっしゃるので、碓井さんが日本人のプロサッカー選手第1号になっていた可能性があったわけです。

 

碓井さんのプレースタイルは、相手ディフェンダーを引きずってでもゴール前に突進していくタイプのドリブラーで、ドリブルからの強烈なシュートも魅力的なプレイヤーでした。太ももも強かったし足腰も強靭でパンチ力もありましたが、身長も180cm近くあったのでタッパもあって、総合力に優れたストライカーでした。なんにしても、大学時代に日本代表入りしていますし、当時は若くて一番馬力があった時だった。「タラレバ」だけどもしオランダに移籍していたらどうなっていたか、みてみたかったですよね。

 

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日本代表としてプレーする碓井博行選手

 

もしオランダへの移籍が実現していたら…

ただ、この人もそうだけど、あまりこういうエピソードを自分からペラペラしゃべるタイプじゃなかった。この時代の人ってそういう人が多いですよね。どっちかっていうと、今は息子さんの碓井健平選手(清水→千葉→清水→町田→沖縄SV)がゴールキーパーとして活躍されているので、時々試合会場でお会いしてもお互いに「おう!」って挨拶するくらいなんです。日立で監督を務めていた時に体調を崩されたりもしたので、やっとそういう重圧から解放されて息子さんとサッカーを楽しんでいらっしゃるのだと思います。

 

このヨーロッパ遠征が日立製作所に入社したばかりのタイミングではなく、もし入社して半年とか1年が経過している時だったら、高橋さんも碓井さんをオランダに置いてきたかもしれない。だからタイミングっていうのは本当に分からないです。ご本人は行きたかったと思います。だって選手としては乗りに乗っている時でしたし、今にして思えば、本当にもったいなかった。

 

こんな話をしても誰も信じないでしょうけど、もし碓井さんがオランダに渡っていたらどうなっていたか。日本のサッカー界自体が違った歴史を辿っていたかもしれない。まさに幻の日本人プロサッカー選手第1号だったわけです。

 

2018/2/21

提供:スタジオ・アウパ

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このコーナーは毎週水曜日の更新です。

次回は2018年2月28日(水)の予定です、お楽しみに!

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