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今井恭司のサッカー千蹴写真館

尾崎加寿夫 ‐ 1979年ワールドユース選手権のエースにして、日本人2人目のブンデスリーガ・プレイヤー

1979年FIFAワールドユース選手権大会での尾崎加寿夫選手とU-20サッカー日本代表

1979年FIFAワールドユース選手権大会での尾崎加寿夫選手とU-20サッカー日本代表

この写真は、1979年8月27日、国立霞ヶ丘競技場で行われたFIFAワールドユース選手権大会、アルジェリア戦前の集合写真で、キャプテンとしてU-20サッカー日本代表を率いる尾崎加寿夫選手です。(後列右から3人目)

1979年ワールドユース選手権大会のエース

尾崎加寿夫さんは、1979年日本で初めて開催されたFIFAワールドユース選手権大会では日本ユース代表のエース・アタッカーでした。当時から「エース」とか「若大将」とか言われていました。今の選手たちとどう比較するかは非常に難しいですが、この当時としては身体も強くてピカイチの選手でしたし、なによりこの大会では大スターだったんです。サッカーを取材するメディア自体が少ない時代でしたから、もし今だったら大変だったと思います。それこそFC東京の久保建英選手クラスだったと思う。

 

ただ、ワールドユース選手権大会が不本意な成績に終わったのと、その後日本代表としても将来を嘱望された中で、奥寺康彦さんに次いで西ドイツに渡りましたが、出て行き方でひと騒動になってしまったため、日本に帰国後は活躍する期間も短く、不運な選手生活に終わってしまった。ただ、不運だったのは、なんというか誤解されていた部分も結構あったようにも思えます。

 

日本中の期待を背負った1979年のFIFAワールドユース選手権大会は2分1敗でグループリーグ敗退に終わりました。1977年に奥寺さんがドイツに渡ったばかりの頃、プロがどういうものかもよく分からなかった時代で、才能ある若い選手が自分もドイツで力を試したいっていうのは当然の成り行きだったと思います。

 

ブンデスリーガへの移籍

1982年森孝慈監督のもとで日本代表として参加した西ドイツ遠征でのアルミニア・ビーレフェルト戦で活躍が認められ、翌年ジャパンカップ(現在のキリンカップサッカーの前身)を欠場して西ドイツに渡ってしまった。

 

渡独後、尾崎さんご本人は、自分はプロだから取材を受けるにあたっては時間や取材内容を前もって決めてもらうようにして欲しい等々、ごく当たり前のことを日本から来た記者たちにお願いしたにもかかわらず、そのことが「若いくせに生意気だ」ってことになってしまって、そういう話が日本でも独り歩きしてしまった。

 

立場は違うけど「監督がプロにならなければ」って仰った森孝慈さんと同じで、本来の発言の意味がきちんと伝わらない感じがニュアンスとして似てる部分があった。それは彼のような若い選手には非常にかわいそうだった。

 

ただ、森さん同様に、そういう批判的なことに対して言い訳をしないという強い「男気」が尾崎さんにはありました。「男気」っていいことだけど、ひと言ふた言言い添えれば誤解が解けるのにっていうことをあえてやらない。そういう強い意志みたいなものもあった。個人的には性格もすごくいいし、プレーもすばらしい選手だったのに、そんな些細な誤解のために本当にもったいないなと感じました。

 

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奥寺康彦と尾崎加寿夫

西ドイツに渡って、なんとか成功してくれたら、批判的な意見も払拭できたかもしれませんが、奥寺さんのような実績を残すことはできなかった。本当は男気があって芯のあるような性格の尾崎さんの方がプロ選手としてはあっていたかもしれない。一方で、奥寺さんのように試合になると気の弱いところが出てしまう優しい性格はプロにはあってなかったようにも思えます。でも、奥寺さんのもう一つの持ち味でもあるコツコツ真面目にっていうところがそれを補ったのかもしれないですね。

 

たぶん、気が強くて男気のあるタイプの選手はドイツにもいっぱいいたんだと思います。逆に奥寺さんのようにモノ言わずにコツコツ真面目にっていうタイプがいなかったんでしょう。練習の時「手を抜きたい」「サボりたい」っていう時に、一生懸命コツコツ隣でやっている選手がいると「やらなきゃ!」って思うじゃないですか。監督とかコーチはそういう性格の選手をチームの中に入れておくことで、全体がうまくいくっていうのをわかっているんだよね。

 

それに加えて、そういう監督やコーチの目に止まる、見初められる、という運の良さも必要ですよね。だから入ったクラブもそうだし、チームメイトもそうだし、監督コーチに認めてもらえるかどうかっていうのも成功するための重要な要素だと思います。

 

日本ユース代表として共に戦った風間八宏さん(現名古屋グランパス監督)も尾崎さんのあとを追うように、1984年に西ドイツに渡りましたが、当時としては風間さんより尾崎さんの方がスター選手だった。どっちも癖はあるけど、尾崎さんは素直だけど一本気で、風間さんはちょっと斜に構えるようなところがあった。監督やっている今でもそうだけど・・・。

 

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1993年、移籍したヴェルディ川崎でプレーする尾崎加寿夫選手

 

世界に戦いを挑むなんて言える時代じゃなかった

1968年のメキシコオリンピック以降、振るわなかった日本サッカー界で、日本は世界に対して戦いを挑むなんてとても言える時代じゃなかった。世界の檜舞台に立てること自体、大会を国内に誘致して主催国にならなければありえなかった時代に開催されたこのワールドユース選手権大会で、なんとかして世界の強豪に立ち向かうために、松本育夫監督を中心とした指導者たちが日本中からスカウティングして組織したチームの中で、尾崎さんはエース・アタッカーだったんです。

 

ちょうど年齢もマラドーナたちと同じ世代だから、一国の期待を背負って、片やマラドーナ、片や尾崎っていうくらいの存在でした。水沼貴史さん、鈴木淳さん、風間八宏さん、柱谷幸一さん、宮内聡さんたちの中で不動の9番というかセンターポジションでしたから、間違いなく尾崎さんを中心にしたチームっていう感じでした。

 

その後、ワールドユースのメンバーの中では一人だけブンデスリーガのクラブから声がかかったわけで、彼らの中でひと際優れた才能の持ち主だったのは間違いない。他にはいなかったわけですからね。絶対的にチームメイトたちにもコーチ陣にも信頼された本当にいい選手だった。

 

2018/2/14

提供:スタジオ・アウパ

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このコーナーは毎週水曜日の更新です。

次回は2018年2月21日(水)の予定です、お楽しみに!

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