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今井恭司のサッカー千蹴写真館

日本代表のトレーニングウェア(1976年8月22日ムルデカ大会)

1976年8月22日ムルデカ大会決勝戦前の写真

1976年8月22日ムルデカ大会決勝戦前の写真

この写真は、1976年8月の第20回ムルデカ大会に参加した時に、日本代表メンバーとスタッフたちが揃いのトレーニングウェアを着て撮った記念写真です。

実はムルデカ大会遠征の出発前に、トレーニングウェアの納品が間に合わなくて、後から空輸して大会開催地のマレーシアで初めて袖を通したので、みんなうれしくなって「それじゃ、みんなで記念写真を撮ろう!」ということになって、8月22日のマレーシアとの決勝戦の前に撮影しました。

 

当時はアディダスプーマアシックスの三社が持ち回りで、一年ごとに日本代表にウェアを提供していましたが、この時はちょうど二宮寛さんが監督に就任したころで、それまでも移動用のスーツはありましたが、チームとして初めてトレーニングウェアを揃えて、日本代表チームとしての意識を高めることにもなった。今では考えられませんが、それまでこんなことはなかったんです。

 

1974年FIFAワールドカップ西ドイツ大会の時に、西ドイツ代表がアディダスの揃いのジャージで、ベッケンバウアーとかミュラーとかがそれを着て並んだ写真を見て「かっこいいね~」ってみんな言っていた。それから三年たって、やっと日本でもチームとしてウェアを揃えて写真を撮ることができたと。

 

「揃いのトレーニングウェアだと正装と同じように扱ってくれるんだ」ってみんな喜んでました。選手の評判も良かったです。滞在先の大使館とか食事やパーティーに行くときでもこれで出席できますし、全員が揃っていると見た目もきれいですし、かっこいいからね。

 

二宮さんは海外経験が豊富だったのと、海外のサッカーもよく見ていて、とても進歩的な考え方の持ち主でした。代表チームを欧州合宿に連れていって分散合宿をしたりとか、海外の大会に出場したりとか、それがきっかけでムルデカ大会で得点王になった奥寺康彦さんがバイスバイラーさんに認められたりとか。そういうふうにほんの少しずつですが、時代が動いていった頃でした。

 

そんなことが縁になって、バイスバイラーさんが監督の1FCケルンから奥寺を獲得したいという正式なオファーがあった。「ドイツに行きたい」という本人の意向を最終的には汲んで、所属先の古河電工もケルンに出したわけです。

 

ただ、もし移籍しても試合に出れなくてすぐ戻ってきちゃったらどうしよう、とかいろんな懸念が当時はありました。そうしたらご存知のように、ドイツでも大活躍だったわけです。

 

そうしたら今度は、もしプロ選手として日本に帰ってきたら、それはそれでどう受け入れようか、ということで、どうしたらいいか当時の関係者も困ってしまった。そんなケースはいままでなかったから・・・。

 

それで「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」っていう肩書を作って、プロ選手なんだけど「プロ」って言わないで、奥寺さんと木村和司さんを「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」っていうことにした。それがうまくいったので、実質的にプロの選手が次第に増えていくきっかけにもなりました。

 

だから奥寺さんが西ドイツに行く時よりも帰ってくる時のほうが大変だったらしい。

 

まあこの写真は、日本代表チームで揃いのジャージやトレーニングウェアができてよかったっていうだけの話なんですけど、そこから選手や指導者たちの考え方やメンタリティも変わっていって、時代も変わっていって、プロ化の意識も少しずつですが芽生えていったんじゃないか、というエピソードです。

2017/09/13

提供:スタジオ・アウパ

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このコーナーは毎週水曜日の更新です。

次回は2017/9/20(水)予定です、お楽しみに!

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