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野球回顧録

出た! ヤクルト電撃逆転 ヒルトン、9回2死に千金の2ラン

【阪急-ヤクルト】日本シリーズ第4戦 九回表2死一塁、阪急・今井雄太郎投手からヤクルト・ヒルトンが左越えに逆転2ランホーマーを放つ=西宮球場で

【阪急-ヤクルト】日本シリーズ第4戦 九回表2死一塁、阪急・今井雄太郎投手からヤクルト・ヒルトンが左越えに逆転2ランホーマーを放つ=西宮球場で

僚友のマニエルが2試合連続ホームランを放つなど活躍しているのに、ヒルトンは第3戦まで12打数2安打だけ。シーズン中みせた獅子奮迅の“先兵”ぶりはどうしたのか。そのヒルトンに最後のチャンスが回ってきた。

ヒルトンはこの5打席目のボックスに入る前、これまでの投球組み立てから「こんどは真っすぐ」と自分にいい聞かせ、狙ったという。ところが打ったのは0-1からのカーブ。打球はヒルトンの執念が乗り移ったように左翼ラッキーゾーンに落ちる逆転2ランとなった。ニコリともせず、ヒルトンはダイヤモンドを駆け抜けた。ナインは躍り上がって迎えたが、本人はしきりに手の汗をぬぐいまだ固い表情で9回裏の守りについた。

ヒーローインタビューでもボソボソ。「バットの先っぽだったが、打った瞬間手ごたえがあった」という。2年前、3Aのハワイアイランダースにいたとき“チャンピオンゲーム”に出場して5試合で3ホーマーを打ったことがあるそうだが「日本シリーズの方がずっとエキサイティング。こんな大事なゲームで、貴重なホームランを打ててうれしい」。どこまでもクールな“先兵”だった。

1978年10月19日 毎日新聞(朝刊)一部抜粋
提供:毎日新聞社

1978年のデーブ・ヒルトン

阪急ブレーブス2勝、ヤクルトスワローズ1勝で迎えた1978年の日本シリーズ第4戦は、5対4で阪急リードのまま最終回を迎えていた。この回を抑えれば、阪急ブレーブスが選手権に王手をかける。そしたら明日の第5戦は本拠地西宮球場でエース山田久志の登場だ。巨人V9時代が1973年に終わりを迎えたあと、1975、76、77年と三連覇を達成した阪急ブレーブスが、この日本シリーズでも球団創立29年目で初のセ・リーグ優勝を果たしたヤクルトスワローズを下して、日本シリーズ四連覇を達成するだろう、という大方の予想通りの展開だった。

だが記事にあるように、ヤクルトスワローズの先兵として期待されたデーブ・ヒルトンが、完投勝利目前の今井雄太郎から本塁打をかっ飛ばして逆転勝利。続く第5戦でも山田久志を終盤に打ち崩してヤクルトスワローズが先に王手をかけた。第6戦は鈴木康二朗が序盤で打ち込まれて阪急に逆王手を許すも、第7戦、大杉勝男の本塁打の判定をめぐって1時間19分に及ぶ試合中断はあまりにも有名な話、そしてヤクルトスワローズは日本シリーズ初制覇を成し遂げた。あれからもう40年……。

1978年、広岡達朗監督の下で3年目を迎えたヤクルトスワローズは、初めてのアメリカ・ユマキャンプで、大砲のチャーリー・マニエルの相棒としてデーブ・ヒルトンを獲得。左右の違いはあれど、もしかしてピート・ローズってこんな感じなのかな? という独特のクラウチングスタイルで、現役メジャーバリバリの選手だとずっと思っていたが、データを見るとそれが勘違いだったことがわかる。でもドカンとホームランをぶちかますボス役っぽいマニエルと、シュアなバッティングとハッスルプレーでスタンドをわかすマジメな鉄砲玉役のヒルトンはいいコンビだった。

この年のセントラルリーグは、8月31日を終えて勝率5割を超えるのが巨人、ヤクルト、大洋、広島の4チーム。その中で、ヒルトンの打率 .342 は断トツの1位。9月、10月のシーズン終盤に調子を落として最終成績は .317、打撃成績は8位に終わるが、二塁手としてベストナインに選出されて、ヤクルトスワローズ初優勝の切り込み隊長としては十分な働きを見せてくれた。そしてこの写真のように、日本シリーズ第4戦では瀬戸際に追い詰められた9回二死からシリーズの流れをスワローズに引き戻す重要な逆転2ランをかっ飛ばした。

 

もう一打、デーブ・ヒルトンが放った貴重なヒットがある。1978年4月1日、神宮球場でのシーズン開幕戦。対戦相手は広島カープ、開幕投手は前年度最多勝投手の高橋里志。初回、公式戦初登場の先頭打者ヒルトンは右中間に二塁打を放ち、二番水谷新太郎の犠打と三番若松勉の犠牲フライで先制するが、このヒルトンの二塁打を外野席でみていたジャズバーの経営者だった村上春樹さんは、「そうだ、小説を書こう」と思い立った。ここら辺の経緯は、『やがて哀しき外国語』『走ることについて語るときに僕の語ること』『村上春樹 雑文集』などに取り上げられている。ヒルトンの打ったシーズン初打席の二塁打が、のちに『風の歌を聴け』となる処女作を執筆するきっかけとなって、その作品は翌1979年4月には群像新人文学賞を受賞した。

 

もしもヒルトンが春先はさっぱりエンジンがかからず凡打の山を築くタイプだったり、もしもヒルトンがペピトーンのようにダメ外人のレッテルを貼られるような残念な助っ人だったりしたら、その後に生まれた数々の村上春樹作品はどうなっていたんだろう。

 

『風の歌を聴け』が群像新人賞を受賞した1979年、ヤクルトスワローズは一転、開幕8連敗、8月には広岡監督が辞任、そしてセ・リーグ最下位に終わり、この年限りでヒルトンはヤクルトスワローズを自由契約となって、阪神タイガースに移籍。1980年シーズン途中で阪神タイガースも解雇されて日本を去った。

 

昨年9月、デーブ・ヒルトンさんはお亡くなりになりましたが、彼の功績を称える地元紙の記事には “Well-respected youth baseball coach” とあり、2008年にフィラデルフィア・フィリーズの監督としてワールドシリーズを制覇したチャーリー・マニエルさんとは別の道で、野球少年たちに愛された人生を送ったようだ。彼のスクール “Arizona School of Baseball” のホームページの写真の中には、王貞治選手と撮った白黒の2ショット写真があり、ヒルトン選手も王選手の隣で少し誇らしげに微笑んでいる。

 

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