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三澤敏博の幕末維新グルメ

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【メニューその23】徳川斉昭が民に対する想いを込めた水戸名物の数々

徳川斉昭と水戸名物:茨城県水戸市

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幕末、攘夷派の先頭として各藩の志士たちに大きな影響を与えた徳川斉昭。実は水戸の名物の数々には、斉昭の民に対する想いが込められていた。その誕生秘話と、斉昭の知られざる一面を一挙紹介! !

グルメ人、徳川斉昭

斉昭と慶喜水戸「千波湖」に建つ徳川斉昭と七郎麻呂(慶喜公)の像

最後の将軍・徳川慶喜は徳川御三家の水戸藩に生まれました。その父は水戸藩9代藩主の徳川斉昭です。幕末、攘夷派の旗頭であった「烈公」こと徳川斉昭は、堅物のタカ派イメージで描かれることが多いのですが、実は非常に知性と教養に溢れた人物で、それは「食」の分野にも渡りました。

斉昭が牛乳や乳製品を推奨していたことはメニュー21でも紹介した通りで、その他、水戸の名物にも斉昭の民を想う気持ちと教養が隠れていました。
 

水戸名物、梅干しに隠された斉昭の思惑

偕楽園の梅偕楽園に咲き誇る美しい梅

まず、水戸といえば梅です。「日本三公園」のひとつに数えられる水戸の「偕楽園」は、天保13(1842)年に斉昭によって造園されました。

斉昭は千波湖に臨む七面山を切り開き〝領民と偕(共)に楽しむ場〟にしたいとの想いから、これを「偕楽園」と名付けました。
 

好文亭偕楽園内の斉昭の別荘「好文亭」

現在、園内には約百品種、三千本もの梅が植えられ、毎年春には、多くの観梅客で大変な賑わいを見せます。この梅も斉昭によって植えられたものです。

天保4(1833)年、水戸の藩内に梅が少ないことに気づいた斉昭は、江戸の藩屋敷より梅の実を取り寄せると、「偕楽園」や藩校「弘道館」、そして領民の家などに植えさせました。

斉昭はこの梅に、ある想いを秘めていました。曰く梅は「他の花に先駆けて咲き、馥郁たる香りを放ち、実は戦の際に兵糧となる」。つまり斉昭は、相次ぐ異国船の来航による危機に備え、梅の実(梅干し)を兵糧とすることを念頭においていたのです。
 

弘道館水戸藩校「弘道館」。無血開城後の慶喜はここに移り、謹慎を続けた

さらに斉昭は「種梅記」の中で「春先に咲く梅の花は、雪を溶かし春を告げる花として多くの人々の心をなごませる存在である。また梅の実には酸が含まれていることから、この実を食すことで人々の喉の渇きと疲れを癒し、潤してくれる存在。軍事用の食料としても最適であるので、梅の備えがあれば、まさに憂いなし」と記しています。

このように現在、水戸の名物として愛されている梅には、斉昭の幕末における強い危機感と、領民を想う気持ちが込められていたわけです。
 

梅干し水戸名物の梅干し

斉昭考案の「紫錦梅」

水戸の名物には、斉昭の想いが詰まった梅から発展したものもあります。そのひとつが「紫錦梅」という梅びしおの料理です。これも斉昭の考案といいます。

通常、梅びしおは砂糖が使用されますが、「紫錦梅」には使われず、木槌で丁寧に叩いた青梅の果肉を、塩と紫蘇の葉で漬け込んで作られます。現在、水戸では偕楽園産の梅を使い、塩と紫蘇の葉のみで、斉昭の「紫錦梅」を再現した土産も販売されています。
 

紫錦梅斉昭考案の「紫錦梅」

偕楽園の梅から考案された斉昭ゆかりの銘菓

さらに、斉昭ゆかりの梅にまつわる水戸の銘菓に、「水戸の梅」という菓子があります。これは白あん入りの求肥を、梅酢に漬け込んだ赤紫蘇の葉でくるんだ菓子です。実は「水戸の梅」の発祥には二つの説があります。

一つは「亀印製菓」が明治25(1892)年に考案したというもの。「天保年間に斉昭の命によって、紫蘇巻梅干を参考とした菓子がつくられた」という藩の記録から、これに基づいた菓子を「星の梅」として発売し、その後「水戸の梅」に改名したといいます。

もう一つは「井熊総本家」説である。明治になり、水戸鉄道が開通されると「偕楽園」への観梅客が全国から訪れ、大変な賑わいとなりました。

そこで県令の安田定則が観光客への土産品として、「井熊総本家」の初代に何か菓子を作ることを相談しました。そして「偕楽園」の梅を利用して完成させた菓子こそが「水戸の梅」であるといわれています。

県令の安田は薩摩藩の出身で、水戸鉄道の開通にも大きく尽力した人物です。この二説、どちらが正しいかは明確ではありませんが、両者ともやはり斉昭の提唱した梅がその起源になっており、水戸にふさわしい銘菓といえます。
 

水戸銘菓「水戸の梅」水戸銘菓「水戸の梅」にも斉昭の面影がのこります

斉昭のおやつから生まれた水戸の銘菓

さらに水戸の名物菓子「吉原殿中」も、斉昭に非常に縁の深いお菓子です。「吉原殿中」は、もち米から作ったあられを、水飴で丸い棒状に固め、きな粉をまぶした菓子です。独特の歯ごたえと甘みが人気を呼び、土産の品としても知られます。

「吉原殿中」の誕生には諸説伝えられていますが、最も有名なのが斉昭の奥女中に仕えた吉原という女性にまつわる話です。

普段より質素倹約を奨励していた斉昭は毎食の際、農民姿の人形を食膳に置き、この人形の持つ笠の中に飯粒を供えて、農民の労に感謝することを常としていました。この農人形は現在、水戸の代表的な民芸品としても有名です。
 

農人形斉昭ゆかりの水戸の民芸品「農人形」

奥女中の吉原は、日頃より斉昭の質素倹約を守り、毎朝神前に供えられた御飯と、斉昭が農人形に供えた飯粒を無駄にはせずに、丹念に干飯として蓄えていました。

そんなある日のこと。茶菓子を所望した斉昭に、吉原は蓄えていた干飯に、きな粉をまぶして出したのです。これが「吉原殿中」のはじまりだと伝わっています。

斉昭はその味はもちろん、吉原の姿勢にも感心し、やがてこれが藩内にも広まっていきました。こうして「吉原殿中」は現在のような水戸の名物菓子となったのです。

以上のように現在、水戸の名物として知られる銘菓の数々には、斉昭の民に対する想いや質素倹約の精神が込められていました。そう想いながら改めて水戸の銘菓を味わってみると、堅物のイメージが強い斉昭の見方も、少し変わってくるかも知れません。
 

吉原殿中土産としても有名な「吉原殿中」

今回紹介した幕末維新グルメ

【幕末維新グルメ メニュー23】徳川斉昭と水戸名物
 茨城県水戸市常磐町1丁目



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