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三澤敏博の幕末維新グルメ

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【メニューその16】勝海舟や大山巌も通った!?あの「やよい軒」と文明開化の物語

やよい軒:東京都日本橋茅場町

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「ごはんのおかわり自由」だけではない、サラリーマンや学生たちの強い味方「やよい軒」。そのルーツは勝海舟らも通った西洋料理の名店にあった。
普段なにげなく親しんでいる「やよい軒」の、知られざる文明開化の物語を紹介!

幕末の動乱と江戸城無血開城

二条城徳川慶喜が大政奉還を断行した二条城

ペリー来航によってはじまった幕末の動乱は、桜田門外の変蛤御門の変長州征伐など、実に多くの事件を引き起こしました。幕府はとうとう大政奉還を断行しますが、ことはこれでは収まらず、程なく戊辰戦争が勃発

初戦の鳥羽伏見の戦いで勝利した薩長新政府軍は、軍を江戸・及び会津へと進めていきました。幸い江戸への攻撃は山岡鉄舟の下交渉と勝海舟・西郷隆盛による無血開城談判によって避けられました。
 

江戸開城石碑

戦いは会津・東北へ移り、北海道五稜郭における箱館戦争が終結したのは明治2年(1869)5月18日のことです。

文明開化と日本の洋食文化のはじまり

日本を二つに分けた激しい戊辰戦争も終結し、いよいよ迎えた文明開化の明治の時代。開国した日本には、ビールや牛肉など、新時代を象徴する洋食が姿を見せるようになります。

明治5(1872)年1月1日、明治天皇がはじめて洋食を食べ、26日にはこれまで避けられてきた牛肉も口にしました。これによって事実上、日本の肉食は解禁となりました。
 

明治天皇新時代の国民を一身で牽引していった明治天皇

明治政府が肉食を解禁した目的は、国民の身体作りにあります。西洋列強と対峙すべく、その食文化を取り入れることで、立派な体格作りを目指したのです。

その先頭に立ったのが明治天皇でした。肉食とは最も離れた位置にあった天皇自らが肉を食すことで、未だ抵抗感のある国民に範を示したわけです。

また明治天皇には新時代の国家元首として、各国の要人を晩餐会などで饗応する必要がありました。そのため肉食をはじめとした西洋料理は避けることはできなかったのです。

岩倉具視の協力で誕生した精養軒

岩倉具視岩倉具視(国会図書館蔵)

明治天皇の西洋料理におけるテーブルマナーは、現在も上野公園で営業を続ける精養軒の創業者・北村重威によって伝えられました。

北村重威は幕末期、あの岩倉具視の側用人を務めた人物です。維新後、岩倉とともに東京に出た北村ですが、岩倉の一大事業「岩倉使節団」には年齢の問題で参加することができませんでした。

そこで当時の日本には外国人を接待するレストランがないことに着目し、開業したのが現在の精養軒です。
 

精養軒上野公園で明治時代より営業を続ける上野精養軒

三条実美大久保利通ら政府高官の協力も得て、いわば国家プロジェクトの一環として創業された精養軒では、現在に至るまで数多くの西洋料理人が輩出されてきました。

小説やテレビドラマでも有名な「天皇の料理番」と呼ばれた秋山徳蔵も若き頃、精養軒で修行を重ねたひとりです。精養軒は当時の西洋料理人にとって大きな登竜門でもあったわけです。

精養軒の二代目・料理長を務めた「彌生軒(やよいけん)」の塩井民次郎

民次郎幕末の動乱を駆け抜けた塩井民次郎。「やよい軒」を経営するプレナスの創業者、末幸の祖父にあたる

そんな精養軒で二代目料理長を務めた人物に、塩井民次郎がいます。塩井家はかつて将軍家直参家臣を務めた家柄で、この民次郎こそ、現在全国各地で我々の食を満たしてくれる外食チェーン「やよい軒」のルーツとなる人物なのです。

宮中の晩餐会や式典における饗応料理を担当した精養軒。その料理長を務めた塩井民次郎は、やがて明治19(1886)年、独立して日本橋の南茅場町に西洋料理店「彌生軒(やよいけん)」を開業します。この西洋料理店が「やよい軒」のルーツとなります。
 

彌生軒明治時代の「彌生軒」に掲げられていた看板(レプリカ)

「やよい軒」の店内で「彌生軒」と書かれた当時の看板を見かけたことはないでしょうか。当時「彌生軒」は日本橋日枝神社の薬師境内で創業され、幼少期、南茅場町に住んだ谷崎潤一郎も『幼少時代』の中で、その様子を書き記しています。
 

勝海舟や大山巌、樺山資紀らも通った「彌生軒」

海舟・樺山・大山樺山資紀・勝海舟・大山巌(国会図書館蔵)

なんと言っても名門・精養軒で料理長を務めた民次郎の洋食店です。政府高官たちもしばしば足を運んではその味に舌鼓を打ちました。

伝えられている維新の人物としては、まず勝海舟がいます。海舟は精養軒にも通っており、パンなどの洋食も大好物でした。さぞ民次郎の料理を楽しんだことでてしょう。

また西郷隆盛の従兄弟で、陸軍大将を務めた大山巌も「彌生軒」に通ったと伝わります。かつて大山の妻、捨松は新聞記者から、大山の好きな物を尋ねられたことがありました。

その際、捨松は「一番は児玉さん(児玉源太郎)、二番目が私で、三番目はビーフステーキ」と答えています。大山はワインも好物で、「彌生軒」でも楽しい時間を過ごしたのではないでしょうか。
 

捨松「鹿鳴館の花」と称された大山の妻・捨松(国会図書館蔵)。
捨松は会津の出身で、当初は大山の求婚を「賊軍の家臣なので」と断ったが、「自分も逆賊(西郷隆盛)の身内だ」と、諦めなかった

それから、やはり薩摩の出身で西郷隆盛らとは幼なじみである樺山資紀も「彌生軒」を愛した一人でした。樺山は上野に西郷隆盛の銅像が建立された際の建設委員長も務めた人物です。民次郎からボルドーワインが贈られたこともあったようです。
 

広告明治時代の広告

現在の「やよい軒」へ

やよい軒チキン南蛮とエビフライの定食

数々の維新の要人らにも愛された「彌生軒」。二代目を継いだ塩井和助は大正時代、日露戦争で活躍した巡洋艦「出雲」に割烹として乗船しています。その後「彌生軒」を閉めて朝鮮へ。鎮海の将校クラブ「鎮海水交社」のレストランで料理人を務めました。

終戦後は日本へ引き揚げ、佐世保の地で「佐世保将校クラブ」の料理長として、その腕を振るったのでした。
 

佐世保港現在の佐世保港

やがて昭和35(1960)年、和助の子である塩井末幸が佐世保で、現在の株式会社プレナス(当時は太陽事務機)を創業。昭和55(1980)年に弁当店(現・Hotto Motto)を開業し、祖父・塩井民次郎からはじまった「食」の分野に参入していきました。

平成16年にはかつて「彌生軒」があった茅場町の地に東京オフィスを構え、その二年後、平成元年以来100店舗に及んで営業を続けてきた「めしや丼」を現在の「やよい軒」に改称。もちろん塩井民次郎の「彌生軒」から命名されたもので、その歴史は名実ともに受け継がれたわけです。
 

プレナス本社「彌生軒」創業の地である茅場町に本社ビルを構えるプレナス

東京オフィスが本社となった平成28年「やよい軒」の店舗は何と全国に300以上に。

「やよい軒」といえば「ご飯のおかわり自由」が魅力ですが、プレナスでは「日本の米文化を守り、受け継いでいく」という信念の下、「Plenus米食文化研究所」を設立するなど、様々な事業に取り組んでいます。

西洋料理店「彌生軒」にルーツを持つ「やよい軒」。普段何気なく通い、親しんでいるその味には、勝海舟や大山巌らの面影があったのです。

和洋の定食から丼、おかわり自由のごはんに味噌汁。そして漬物。そこに文明開化の時代から脈々と受け継がれた「やよい軒」の歴史というスパイスが加えれば、やはり明日もまた通ってしまう。
 

定食YAYOI本社一階の「やよい軒」は定食YAYOIとして、少し高級な店舗に。いつもと違う「やよい軒」の味が楽しめます

今回紹介した幕末維新グルメ

【幕末維新グルメ メニュー16】やよい軒
 プレナス東京本社
 東京都中央区日本橋茅場町1丁目7番1号



次回予告

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【幕末維新グルメその17】

勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城。実は勝海舟が守ったのは、江戸の町だけではなかった。

海舟によって現在にその味を伝える、老舗の最中を紹介!

 


このコーナーは、毎週日曜日の20:45に更新します。

大河ドラマを見たら忘れずチェック!日曜夜の新習慣です。

 

次回は10/21(日)の予定です。お楽しみに。
 

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