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三澤敏博の幕末維新グルメ

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【メニューその11】河井継之助の遺志が引き継がれたアサヒビールの物語!!

幕末維新麦酒物語3:アサヒビール

20180909-11-00

常に日本国内への出荷量1・2を争う人気ブランド、アサヒビール。その成り立ちには長岡戦争を指揮した河井継之助が残した言葉が関係していた。外山脩造が継之助から継承した、魂のビール物語。
 

サッポロ・ヱビスに並ぶ関西の麦酒

アサヒビール本社現在のアサヒビール本社。ビールを模したビルが印象的。

サッポロビールヱビスビールの回で紹介した通り、明治39(1906)年、激化する各社の販路争奪戦争を収めるべく、サッポロとヱビス、そしてアサヒの三社が合併し「大日本麦酒株式会社」となった。

当時アサヒビールを醸造していたのは大阪麦酒という関西の麦酒会社であった。大阪麦酒は明治20(1887)年、関西を代表する実業家たちによって創業された。その代表的人物が長岡藩出身の外山修造(とやましゅうぞう)という人物である。
 

清川八郎らに学んだ寅太

外山修造は長岡藩の庄屋の長男として生まれた。幼名を寅太といい、幼い頃より非常に聡明な少年であった。やがて十七歳の頃、江戸に出て清河八郎の塾に学んだ

清河は山岡鉄舟らと「虎尾の会」を結成し、尊攘運動に奔走した人物だ。将軍家茂の上洛に際しては警護を名目に浪士隊を編成、これを上洛させると尊皇攘夷の兵に転じさせるなど、策士として知られる。

この時、清河の策には乗らず京に残留した近藤勇らが後に「新選組」を結成していく。
 

小石川伝通院浪士隊募集の地となった小石川伝通院。近藤勇や土方歳三らもここに集った。当地には清河も眠る

寅太が清河の塾に学んだ期間はそれ程長くなかったようだ。江戸では幕府の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」でも学んだ。昌平黌には各藩から大勢の藩士らが遊学しており、かの高杉晋作もここに学んだ
 

湯島聖堂昌平黌となった湯島聖堂

その後、帰郷した寅太は、やがて戊辰戦争最大の激戦ともいわれる北越戦争に巻き込まれていく。

河井継之助に師事

寅太の出身である長岡藩といえば、やはり河井継之助が有名だ。2020年には河井を主役にした司馬遼太郎の名作「」の映画化も決定し、ますますその人気が高まっている。

河井継之助銅像河井継之助記念館(長岡市)の銅像

寅太と河井継之助の出会いは、継之助がまだ要職に就いていなかった30代前半のことと伝わる。まだ十代であった寅太は継之助に心酔し、人生の師として仰ぐようになった。やがて戊辰戦争が勃発し、薩長新政府軍は江戸及び、会津・庄内へと軍を進めた。

江戸への攻撃は勝海舟西郷隆盛の談判により無血開城となったが、軍は「朝敵」とされた会津藩へ進行。仙台藩など、会津へ同情的な東北諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し、その結束を高めていった。

そんな中、長岡藩の姿勢がにわかに注目された。長岡藩主は幕府の老中職を務めており、隣接する小千谷には会津藩の預かり地もあった。佐幕派だとの見方も強く、その挙動が注視されていたのだ。

この時、長岡藩の家老上席に就任した継之助は、あくまでも中立の道を探っていた。長岡藩が新政府軍と会津との間を取り持とうと考えたのだ。そして小千谷の慈眼寺にて新政府軍の土佐藩士・岩村精一郎と会談し、説得を試みた。いわゆる小千谷会談だ。

慈眼寺会談の間当時のままに遺る「慈眼寺」の会談の間

しかし会談は物別れに終わり、長岡藩も奥羽列藩同盟に加わって、新政府軍と刃を交える形となった。そして継之助に師事していた寅太も、過酷な戦いを継之助と共に行動していくのだった。

継之助の采配は優れ、前半戦は大軍を率いる政府軍とも互角に戦った。一度は敵に奪われた長岡城を奪還するという奇跡も起こし、新政府軍を驚かせた。

だが、この奪回戦において継之助は足に銃弾を受け重傷となる。指揮官の負傷と疲れにより兵の志気も衰えていく中、わずか四日後には再び城は陥落となった。

長岡市郷土資料館長岡城を模した長岡市郷土資料館

継之助の遺言

城が再び落ち、以後、長岡藩士は会津への転戦を余儀なくされた。継之助の傷は重く、担架に乗って八十里峠を越えていったが病状はさらに悪化し、只見・塩沢村の矢沢宗益宅に投宿した。
寅太はその間、常に継之助の側にあった。やがて自身の死期を察した継之助は臨終の床に寅太を呼ぶと、

「寅よ、これからは商人の時代だ。おみしゃんは、商人になれ」

と告げ、福澤諭吉への紹介状を与えたのだった。かくして激しい長岡戦争を指揮した河井継之助は没した。

継之助の遺志を引き継いだ外山脩造

三田演説館慶應義塾大学の三田演説館

寅太こと外山脩造は、継之助の遺志を継ぐべく、維新後の明治2(1869)年、継之助の紹介状をもって福沢諭吉の慶應義塾に入った。

その後、明治6(1873)年には大蔵省の紙幣寮に勤務して翻訳の仕事に携わった。当時の紙幣寮長は渋沢栄一であったが、渋沢は予算編成を巡って大久保利通らと対立し、政府を去ると、第一国立銀行の頭取となった。

そして明治12(1879)年、渋沢は紙幣寮時代から目を付けていた修造を大阪の第三十二国立銀行の総監役に抜擢し、悪化していた経営の立て直しを一任したのだった。

渋沢栄一像常盤橋公園に建つ渋沢栄一像。渋沢は維新後、経済界で大成功を収めた後も、かつての主君である徳川慶喜を物心共に支え続けた。

見事、渋沢の期待に応えた修造は一躍その名を轟かせ、三年後には初代日本銀行大阪支店長に任命された。その後、銀行を辞職し明治20(1887)年には商工業を視察するために渡米する。

そこで出会った石油と電鉄、そしてビールの事業に大きな関心を示すのだった。こうして帰国後、修造はかつて継之助が遺言した通り、数々の事業を開始していく。
そのひとつが明治22(1889)年に酒造家の鳥井駒吉らと共に設立した大阪麦酒会社、つまり現在のアサヒビールであった。

アサヒビールに注がれた継之助の魂

創業当時の大阪麦酒会社(アサヒビール)創業当時の「大阪麦酒会社(アサヒビール)」(大日本麦酒株式會社三十年史)

困難を極める純国産ビール作りは、佐渡出身の科学者、生田秀の功績によって成功を見た。生田はドイツに渡り、わずか九ヶ月の短期間で醸造技術を習得。日本人として初のブラウマイスターの称号を得た人物だ。

修造は生田に、大阪吹田のビール工場における製作指揮を委任し、翌年の明治25(1892)年5月にアサヒビールを完成させた。アサヒビールの売れ行きはすさまじく、半年後には出荷が追いつかなくなる程であった。

明治39(1906)年の三社合併時には、醸造量第二位に位置しており、その人気は非常に高かった。修造はその後も多くの企業の創設に携わっている。アサヒビールの他にも大阪ガス阪神電鉄といった、現在でも日本を支える企業に関わっている。

一説によると、阪神電鉄を親会社とする阪神タイガースのタイガーは、修造の幼名である寅太に由来しているという。かつては甲子園球場に外山脩造の銅像も建立されていた。残念ながら第二次世界大戦による金属回収によって撤去されてしまったが、現在はアサヒビールによって虎の銅像が建立されている。

こうして河井継之助から新時代に託された夢は、外山脩造によって見事に叶えられた。その精神は現在のアサヒビールが生み出す辛口のビールにも、魂として継承されているのである。

外山脩造の銅像(偉人の俤)かつて甲子園球場に建立されていた外山脩造の銅像(偉人の俤)

今回紹介した幕末維新グルメ

幕末維新麦酒物語3:アサヒビール
東京都墨田区吾妻橋1-23-1 アサヒグループ本社ビル
 

次回予告

幕末維新・ビール物語

【幕末維新グルメその12】

<特別企画>幕末維新麦酒物語 その4:キリンビール

次回はサッポロ・ヱビス・アサヒの三社合併に参加しなかったキリンビールの物語。実は外国資本として生まれたキリンビールには、坂本龍馬とも交流したグラバーや岩崎家が深く関係していた!!

キリンビールに秘められた維新の秘話、乞うご期待!!

 


このコーナーは、毎週日曜日の20:45に更新します。

大河ドラマを見たら忘れずチェック!日曜夜の新習慣です。

 

次回は9/16(日)の予定です。お楽しみに。

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