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三澤敏博の幕末維新グルメ

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【幕末維新グルメその10】長州藩出身の井上馨らが協力したヱビスビールの物語!!

幕末維新麦酒物語2:ヱビスビール

20180902-10-00

現在、サッポロビールの一ブランドとして販売されているヱビスビール。そのはじまりには、井上馨と関係の深い三井財閥の協力があった。

本格ドイツ式ビールを目指して醸造されたヱビスビールと、維新の要人たちによる文明開化の物語!!
 

恵比寿駅とヱビスビール

恵比寿駅多くの人が行き交う恵比寿駅

近年、電車に乗っていると、その発着メロディには、いわゆる「ご当地発着メロディ」というその土地ゆかりのメロディを耳にすることが多い。

蒲田駅では映画「蒲田行進曲」のテーマが、また高田馬場駅では「鉄腕アトム」のテーマなどが発着メロディに採用されている。

JR東日本の恵比寿駅で流れるメロディは、もちろんヱビスビールのCMでおなじみの曲だ。この曲は映画『第三の男』のテーマであるが、日本においては、すっかりヱビスビールのテーマ曲として定着している。
 

恵比寿駅駅構内にはヱビスビールの看板などが並ぶ

そもそもヱビスビールと恵比寿駅の関係は極めて深い。というのも恵比寿駅はヱビスビールを出荷するために設けられた貨物駅であり、恵比寿という地名もヱビスビールに由来しているのだ。

「恵比寿」で作られたビールだから「ヱビスビール」なのではなく、「ヱビスビール」が作られているから「恵比寿」の地名が生まれたのである。
 

ヱビスビールの誕生と、二代社長の木村荘平

ヱビスビールのはじまりは明治20年(1887)年に遡る。本格的なドイツビールを醸造・販売すべく、中小の資本家らが創業した「日本麦酒醸造」がそのはじまりである。

呼びかけ人は鎌田増蔵という貿易商であった。ところが資金不足から、わずか半年で社長の鎌田は辞職。二代目の社長には、政界にも顔が利く実業家、木村荘平が就任した。

木村は非常に逸話に富んだ人物だ。幕末期、青物業と茶の販売で成功した木村は、商売仲間の顔聞きとなって京都の薩摩藩邸に出入りするようになった。戊辰戦争の初戦「鳥羽伏見の戦い」においても、薩摩藩の御用を務めている。
 

鳥羽伏見鳥羽伏見の戦い勃発地に建つ石碑。鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍の小競り合いから戦いは始まった。

だが、薩摩藩からの売掛金が支払われず、ついに木村は倒産。その後、やはり縁の深かった薩摩藩出身の大警視・川路利良に助けられた。

西南戦争で警視隊を率い、西郷軍と戦った川路は終戦後の明治11年(1878)、木村を上京させると、警視庁の管轄にあった官設屠場の運営を任せた。
 

川路利良


文明開化の当時、肉食は広まりつつあり、屠場の運営を成功させた木村は同時に牛鍋チェーン店「いろは」を創業して更なる成功を収めた。

「いろは」は都内に二十軒以上が展開され、それぞれ各店には女将が置かれた。

実はこの女将、すべて木村の愛人であったというから驚きである。

そんな経営手腕を持つ木村を持ってしても「日本麦酒醸造」の事業計画を維持することは難しかった。なんと初代に続き、わずか三ヶ月で社長を退任してしまうのだった。
 

長州藩出身の桂二郎とヱビスビール

一年の間に二人も社長が辞任してしまった「日本麦酒醸造」。先行きは真っ暗な中、続いて社長に選任されたのは、やはり政財界に大きな顔が利く桂二郎であった。

桂二郎は長州藩の出身で、兄は後の内閣総理大臣・桂太郎だ。維新後、ドイツでブドウの栽培とワイン醸造法を学んだ二郎は帰国の後、勧農局員としてブドウ栽培の指導に当たった。

明治16年(1883)には北海道事業管理局勤務となり、開拓使が設立した札幌葡萄酒醸造所を管理した。この葡萄酒醸造所は、前回紹介した札幌麦酒醸造所(サッポロビール)とともに開拓使の「日本ビールの生みの親」村橋久成が携わった醸造所である。
 

札幌葡萄酒醸造所札幌葡萄酒醸造所(国立公文書館デジタルアーカイブ)

明治20年(1887)、札幌葡萄酒醸造所は二郎に払い下げられ「花菱葡萄酒醸造場」として営業が引き継がれた。二郎が「日本麦酒醸造」の三代社長に就任したのは、この翌年六月のことであった。

井上馨や桂二郎など、長州藩の人々が協力したヱビスビール

長州藩の出身で、桂太郎を兄に持つ二郎の力は大きく、この三代目社長によってようやく「日本麦酒醸造」は動き出した。その背景には、やはり長州藩出身である井上馨の力があった。

井上はかつて西郷隆盛に「三井の番頭さん」と揶揄される程に三井とは密接な関係にあり、三井物産の前身である先収会社は井上らが設立した会社だ。

「日本麦酒醸造」は三井物産の融資協力により、いよいよ動き出すことができた。株主に名を連ねた井上の部下・木村正幹や、後の外務大臣・青木周蔵らも長州の出身である。

そして明治22年(1889)には現在の「恵比寿ガーデンプレイス」の地に醸造工場も竣工。ドイツ人醸造技師の指導の下、翌年にはビールの販売も開始された。

創業時創業時の醸造工場(ヱビスビール記念館)
恵比寿ガーデンプレイスサッポロビールの本社が建つ現在の恵比寿ガーデンプレイス

「日本麦酒醸造」のビールは当初、「大黒ビール」と命名するつもりであったが、既に横浜に存在していたため「恵比寿ビール」と名付けられた。これが現在でもサッポロビールで販売されている「ヱビスビール」のはじまりである。

「東洋のビール王」馬越恭平が発展させたヱビスビール

「恵比寿ビール」は東京を代表する本格ドイツビールとして評判を呼び、 この年、上野で行われた第三回内国勧業博覧会では「最良好」の評価を獲得した。
 

発売当初のヱビスビール発売当初のヱビスビール(ヱビスビール記念館)

ところが不況により、当時まだまだ高級品であったビールは庶民には全く売れず、明治24(1891)年、早くも行き詰まってしまった。

そこで三井物産より派遣されたのが、後に「東洋のビール王」と称された馬越恭平である。馬越は幕末、岡山の医者の家に生まれ、維新後は井上馨の先収会社に入社して、その才を発揮した。

先収会社解散後は、その後を引き継いだ三井物産に入り、西南戦争における物資調達の成功を皮切りに昇進を重ねて、三井の重役へと出世していった。

 

馬越恭平恵比寿ガーデンプレイスの「ヱビスビール記念館」に建つ馬越の像

「日本麦酒醸造」を立て直すべく新たに社長に就任した馬越は、巧みな経営手腕と奇抜なアイデアによって「恵比寿ビール」を飛躍的に成長させていった。そのひとつに日本初のビヤホールがある。

馬越は明治28年(1895)年、日本ではじめてのビヤホール「恵比寿ビール BEER HALL」を銀座にオープンした。ビヤホールはたちまち話題となり、工場直送の出来立て生ビールが提供されたという。
 

ビヤホール馬越が開いた日本初のビアホールの模型(ヱビスビール記念館)

また馬越は直接ロシアにも足を運び「恵比寿ビール」の輸出をも成功させた。日露戦争の「遼陽会戦」に勝利した日本軍が遼陽城内に入ったところ、その倉庫には大量の「恵比寿ビール」があったという。

こうして人気を獲得していった「恵比寿ビール」は 明治33年(1900)のパリ万博で金賞を獲得。まさに世界が認めたビールとなった。

その人気は偽物が出回るほどで、急増した製品輸送のために、翌年には工場内に貨物専用の駅舎「恵比寿停車場」が設置された。

この駅舎の側には、後に旅客も扱う駅が設けられるのだが、 これが現在の「恵比寿駅」である。さらに昭和3年(1928)年には当地の地名も「恵比寿」と定められた。
 

恵比寿駅当時の恵比寿駅(ヱビスビール記念館)

維新の要人も愛したヱビスビール

井上馨をはじめ、馬越は多くの維新の要人と交流を結んだ。彼らもヱビスビールを愛飲したことは間違いないであろう。井上馨夫妻や大隈重信などは、ヱビスビールの工場にも足を運んでいる。

また井上の盟友である伊藤博文とも親しく、 伊藤の死後には、博文寺の建立にも奔走した。 博文寺は児玉源太郎の嫡男である児玉秀雄が、朝鮮総督府の政務総監を勤めた際に伊藤の功績を称えるべく、朝鮮に建立した寺である。
 

博文寺


信心深い馬越は、毎朝必ず読経することを習慣としており、毎回既に亡くなっていた伊藤や井上らの名前を挙げながら、それぞれの冥福を祈った。

実は恵比寿の工場内にも、ある神社を建立している。恵比寿様をまつる恵比寿神社だ。馬越はえびす宮の総本社である兵庫県の西宮神社から恵比寿神を勧請し、工場内に恵比寿神社を建立した。

当時の恵比寿神社の写真が残っている。注目したいのはその撮影者だ。これを撮影したのは何と、最後の将軍、徳川慶喜なのである。
 

慶喜の撮影した恵比寿神社慶喜の撮影した当時の恵比寿神社(ヱビスビール記念館)

戊辰戦争以降、謹慎生活を続けた慶喜は その後も政治からは距離を置き、一切を趣味に生きた。慶喜の趣味は絵画や自転車、狩猟に能楽などなど多岐に及んだが、そのひとつに写真撮影があった。

当時のヱビスビールには、慶喜の写真仲間がいたという。果たして、慶喜もヱビスビールを飲んだであろうか。現在も恵比寿ガーデンプレイスの地には、恵比寿神社が鎮座されている。
 

現在の恵比寿神社恵比寿ガーデンプレイスの開業に伴い、平成6年より公開されている恵比寿神社

ビール通の福沢諭吉とヱビスビール

幕末、勝海舟らと咸臨丸で渡米して以来、三度に渡って海外渡航を経験した福澤諭吉は 慶応3年(1867)に出版した「西洋衣食住」の中でビールを紹介している。

「ビールは苦いが、胸の内を開くのに妙なるもので、またその苦い味を愉しんで飲む人も多い」と西洋の酒、ビールを紹介した。

福澤は大の酒好きで、その逸話は数々伝えられているが、ビールも愛飲しており、屋敷には樽の生ビールが用意されていることもあった。
 

福澤諭吉像慶應義塾大学に建つ福澤の胸像

実は福沢は当時のヱビスビールに務めていた三輪光五郎に苦情めいた手紙を送っている。三輪は幼少期より福澤と交流した人物だ。元治元年(1864)、故郷中津へ帰省した福澤は洋学修行をさせるべく、数人の少年を江戸に連れ帰った。

その一人が三輪であった。道中「西洋かぶれ」と命を狙われることも多かった福沢は 攘夷思想に染まる長州藩に上陸の際には、三輪の名前をかたって刺客の目をごまかしたというエピソードがある。
 

福澤諭吉旧居故郷・中津に遺る福澤諭吉旧居

そんな三輪宛てに福沢は 「近来恵比寿ビールの風味著しく下等に相成。老生誠に困り候」との苦情の手紙を出し、アメリカのビールの方が味はよく、このままでは海外に市場を奪われると警告した。

グルメ人の福沢だけに、味にはうるさかったのであろうが、さっぱりしたアメリカビールに比べ、ドイツ仕込みのヱビスビールは福沢の口に合わなかったのかもしれない。

現在のヱビスビールとサッポロビール

ヱビスビール記念館


やがて明治39年(1906)、激化する各社の販路争奪戦争を収めるべく、ヱビス・サッポロ・アサヒの三社は合併し「大日本麦酒株式会社」となった。初代社長を務めたのは、この合併をまとめた馬越である。

当初、馬越は社長を固辞したが、渋沢栄一の説得により、これを受けた。以後「大日本麦酒株式会社」は市場のシェア七〇%を誇る大ビール会社に発展していくが、前回も紹介した通り第二次大戦の敗戦後に解体となり、現在の「アサヒビール」と「サッポロビール」に分割された。

サッポロビールは当初「ニッポンビール」の名前でビール販売をはじめたが「サッポロ」を懐かしむ声が後を経たず、昭和31年(1956)に開拓使発祥の地・北海道でサッポロビールを復活させた。

また名品として名高い「ヱビスビール」も、やはり昭和46年(1971)に「サッポロビール」によって復活された。ただしサッポロビールではヱビスビールを単なる一商品としては扱わず、一つのブランドとした。

それはかつて別会社として、それぞれの苦労の中で生み出された「ヱビスビール」に対する敬意とも言えよう。よって「サッポロビール」の商品には必ず付けられているシンボルの★印は「ヱビスビール」には付けられていない
 

ヱビスビール


現在、かつてのヱビスビール工場跡地である「恵比寿ガーデンプレイス」にはサッポロビールの本社のみならず「ヱビスビール記念館」も併設されている。

ここでは「ヱビスビール」に関する資料の見学や、テイスティングサロンで各種ヱビスビールを愉しむことができる。

維新の人々が愛し、文明開化の日本をビールという酒で潤したヱビスビール。その歴史とともに、ゆっくりと堪能したい。
 

ヱビスビール記念館ヱビスビール記念館
ヱビスビール記念館何百本かに1本の確立で出会うことのできる、背面のカゴにも鯛が入った「ラッキーヱビス」(左)。

今回紹介した幕末維新グルメ

幕末維新麦酒物語2:ヱビスビール
東京都渋谷区恵比寿4丁目20-20番 恵比寿ガーデンプレイス
 

次回予告

幕末維新・ビール物語

【幕末維新グルメその11】

<特別企画>幕末維新麦酒物語 その3:アサヒビール

サッポロ・ヱビスに続く次回の幕末維新ビール物語は、アサヒビール。

過酷な長岡戦争において、長岡城奪還の奇跡を起こした河井継之助。その意志を継いだ外山脩造とアサヒビールの物語を紹介!!

 


このコーナーは、毎週日曜日の20:45に更新します。

大河ドラマを見たら忘れずチェック!日曜夜の新習慣です。

 

次回は9/9(日)の予定です。お楽しみに。

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