Sony
Sony
メニュー
閉じる

旅行

沖縄旅行特集

沖縄のおすすめ観光スポット

「やちむん」400年続く人気の伝統工芸品

やちむんとは、沖縄の方言で焼き物のこと。長年の伝統が受け継がれている民芸品で、日常的に利用できる食器は沖縄旅行のお土産としても人気が高い。

さまざまな色や柄の「やちむん」撮影協力/壺屋焼 窯元 育陶園

長年の伝統を継承しつつ、若い感性を加えた作品も増えている「やちむん」は、沖縄の生活用品としてはもちろん、現在では人気の観光土産となっている。
やちむんの原点は、400年以上も昔の1600年頃で、まだ沖縄が琉球王国と呼ばれていた時代。その頃の琉球王国は小さな島国でありながら、中国やタイといった外国と交易を行い、すぐれた貿易国家へと成長していた。そんな琉球王国に、海外から陶磁器が豊富に持ち込まれ、焼き物の技術が発展、それが「やちむん」の原点となったのだ。

琉球王朝時代から育まれてきた「やちむん」の魅力に迫る

水や泡盛を貯蔵する容器として使われていた壺

食器や壺など、生活の道具として、沖縄の暮らしの中で愛用されているやちむん。沖縄の方言で「焼き物」のことを指す沖縄県産の陶器は、県外からも広く注目を集め、普段使いの器として若い女性を中心に人気が高い。
やちむんの歴史は古く、琉球王朝時代にまでさかのぼる。「1616年、薩摩藩から朝鮮人陶工3名が技術指導のために琉球を訪れたことがきっかけです。その後、各地で焼き物が作られていたようですが、1682年に当時の尚貞王(しょうていおう)が焼き物産業の振興を目的に、県内に点在していた陶工を壺屋(つぼや)に集めたことが、壺屋焼誕生のきっかけです」と話す倉成さん。壺屋は現在の那覇市内にあり、国際通りや牧志公設市場といった定番観光スポットのすぐそばに位置している。この地が選ばれた理由は、首里城と那覇の中間にあり、焼き物づくりに必要な水や土の確保が容易で、薪や粘土などの物資を受け取るために利用した安里川(あさとがわ)に近かったからだといわれている。「当時、主に作られていたのは、壺や甕。それらは“コンテナ”として利用されていたんです。泡盛を入れて離島や海外に輸出したり、海産物を入れて輸入したり。そこから皿や器といった家庭用品に発達していったと考えられています」と倉成さん。その後、壺屋焼が活気づいたのは、明治から大正時代の頃。泡盛の輸出が大幅に増え、壺の生産量が格段に増えたからだ。しかし、廃藩置県などを経て、琉球王国が沖縄県になると、県外から多くの安価な焼き物が流入し、壺屋焼は衰退してしまう。

壺屋焼の衰退と再生、読谷やちむんの里の誕生

明治時代以降には、沖縄の守り神シーサーも作られるようになった

その後、壺屋焼は低迷するが、大正15年(1926)頃からはじまった民藝運動(みんげいうんどう)が再生のきっかけとなった。暮らしの中で愛用された日用品の中に“用の美”を見出し、活用する民藝運動は沖縄にも及び、壺屋焼の素晴らしさは全国に伝わった。この運動により復活した壺屋焼だが、今度は太平洋戦争の痛手を受ける。「幸い、壺屋地域の戦争被害は軽く、戦後すぐに活動を再開することができました。陶工たちは、戦争で失われた皿や器、壺などの生活用品の製作に励みました」と倉成さんは話す。
戦後の復興に貢献した壺屋焼だが、1970年代に入ると、またしても問題に直面する。それは焼き物の製作時に発生する煙による公害問題だった。那覇市は、薪をたく登り窯の使用を禁止、陶工たちはガス窯への転換を余儀なくされる。途方に暮れた陶工たちを救ったのが、沖縄県中部にある読谷村(よみたんそん)だった。「当時、文化村構想を進めていた読谷村は、陶工たちに元米軍用地を提供し、そこに登り窯を作ることを提案しました。登り窯にこだわった人間国宝の金城次郎さんをはじめ、多くの陶工たちが読谷に移り住み、それから読谷は“やちむんの里”として大きく発展していったのです」。
現在では、壺屋はやちむんの故郷、読谷はやちむんの聖地とも呼ばれ、どちらも多くの観光客が訪れる。倉成さんにそれぞれの地域の印象について聞いてみた。
「壺屋は、300年以上前から焼き物を焼き続けてきた場所。沖縄戦の被害が少なかったので、昔ながらの街並みが残っていて、戦前の風景を垣間見ることができます。読谷は1970年代から焼き物作りが始まった地域で、やちむんが好きな人たちが集まり、壺屋に比べるとまだまだ若いですが、パワーがある場所。新しいやちむんが次々と作られているというおもしろさがありますね」。

土の表情が残るアラヤチと彩りを加えたジョーヤチ

明治時代以降には、沖縄の守り神シーサーも作られるようになった

その後、壺屋焼は低迷するが、大正15年(1926)頃からはじまった民藝運動(みんげいうんどう)が再生のきっかけとなった。暮らしの中で愛用された日用品の中に“用の美”を見出し、活用する民藝運動は沖縄にも及び、壺屋焼の素晴らしさは全国に伝わった。この運動により復活した壺屋焼だが、今度は太平洋戦争の痛手を受ける。「幸い、壺屋地域の戦争被害は軽く、戦後すぐに活動を再開することができました。陶工たちは、戦争で失われた皿や器、壺などの生活用品の製作に励みました」と倉成さんは話す。
戦後の復興に貢献した壺屋焼だが、1970年代に入ると、またしても問題に直面する。それは焼き物の製作時に発生する煙による公害問題だった。那覇市は、薪をたく登り窯の使用を禁止、陶工たちはガス窯への転換を余儀なくされる。途方に暮れた陶工たちを救ったのが、沖縄県中部にある読谷村(よみたんそん)だった。「当時、文化村構想を進めていた読谷村は、陶工たちに元米軍用地を提供し、そこに登り窯を作ることを提案しました。登り窯にこだわった人間国宝の金城次郎さんをはじめ、多くの陶工たちが読谷に移り住み、それから読谷は“やちむんの里”として大きく発展していったのです」。
現在では、壺屋はやちむんの故郷、読谷はやちむんの聖地とも呼ばれ、どちらも多くの観光客が訪れる。倉成さんにそれぞれの地域の印象について聞いてみた。
「壺屋は、300年以上前から焼き物を焼き続けてきた場所。沖縄戦の被害が少なかったので、昔ながらの街並みが残っていて、戦前の風景を垣間見ることができます。読谷は1970年代から焼き物作りが始まった地域で、やちむんが好きな人たちが集まり、壺屋に比べるとまだまだ若いですが、パワーがある場所。新しいやちむんが次々と作られているというおもしろさがありますね」。

【 更新日 】2018年1月26日

ページの先頭