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2018年02月26日(月)

FREAKS Vol. 269(2018/02)より〜昌子選手 インタビュー〜

今回、FREAKS前回号(Vol.269)からご紹介するのは、昌子選手のインタビュー!
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これまでの自分を
「こえる」ために

昌子源
壁を一つ越えたと思えば、すぐにまた次の壁が見えてくる。
その繰り返しのなか、誰もが悪戦苦闘し続ける。
アントラーズの“顔”に成長し、
日本代表に名を連ねるようになった昌子源とて、変わらない。
今年のクラブスローガンのキーワードは“こえる”。
ぶち当たった壁を前に、どう挑んできたのか。
昌子が今、感じている壁とは――。

今や押しも押されもしないアントラーズのディフェンスリーダーとなった昌子源のサッカー人生は順風満帆とはいい難い。むしろ波乱万丈。中学時代にはサッカーから離れた時期もあった。紆余(うよ)曲折のサッカー人生だからこそ、壁を乗り越えたあとの達成感も、壁を乗り越えられなかった悔しさも、よくわかっている。

G大阪ジュニアユース時代に
味わった挫折

──いろいろな壁を乗り越えてきたと思いますが、これまでのサッカー人生のなかで、最初に感じた壁とは?
 僕が子どものころは、自分で言うのもなんですが、チームのなかで一番うまかった(笑)。神戸市トレセンとか、兵庫県トレセンとか、常に選ばれるような感じでしたから、“壁を感じる”というのはなかったです。当時はFWだったので、バンバン点を取っていましたし、のびのびやっていました。
──自分のチームでは圧倒的にエース格だった?
 そうですね。ただ、神戸市トレセンとか、兵庫県トレセンとか、そういうところに行くと、やっぱりうまい子がたくさんいる。負けているとは思っていなかったけれど、僕が一番ではなくなった。今でもよく覚えているのは兵庫県トレセンで一緒になった原口拓人選手(現鳥取)です。小学生のチームって、だいたい4‐4‐2なんやけど、県トレの2トップの一番手は拓人で、僕が二番手みたいな雰囲気がチームのなかにあって。そのとき初めて「こいつを超えたろう」という思いが出てきましたよね。
──身近なライバルの出現に闘争心が刺激されたのですね。
 でも、G大阪のジュニアユースで、もっと衝撃的な選手に出会いました。それが宇佐美貴史(現デュッセルドルフ)。僕のなかでは別格です。どうひっくり返っても超えられない。僕がどんなに努力してもこいつには勝てない。中学生にして、そう思わされました。すごく敗北感があって、あいつのせいでサッカーを辞めましたから(苦笑)。
──本当にサッカー自体をやめてしまったのですか?
 やめました。G大阪のユースに上がる、上がらないという話の前に、中学3年生のわりと早い段階で、G大阪のジュニアユースをやめて、バスケットばかりして遊んでいました。拓人もそうですけど、小学生のときにトレセンとかで一緒にやっていた友だちが、みんなG大阪のジュニアユースに進んだんです。最初のころは試合に出られたけれど、徐々に出られなくなって、自分の中でもうG大阪では無理やなって思いました。正直、つらかったです。振り返ってみたら、それも一つの壁。拓人や宇佐美はそのままユースに上がりましたけど、僕は越えられなかった。というか、逃げてしまったから、挫折ですね。

みんなで励まし合って
壁を乗り越えた米子北高時代

──G大阪ジュニアユースでは挫折したとはいえ、米子北高(鳥取)への進学。全国の舞台も経験しました。
 地元が神戸なので、最初は滝川第二高に行こうかなと思っていたんです。でも、「推薦ではなく、一般受験で」と言われたので、「だったら、ええわ」と。まったく勉強していなかったので。当時の自分は目の前に何らかの壁が出てくると、すぐに避けていたというか、逃げていました。今思うと、本当にカッコ悪いですけど(苦笑)。
──米子北高に進んだ経緯とは?
 当時の米子北高の監督と僕の父親が同じ大学の出身で、入れ違いではあるけれど、父親は先輩で、監督が後輩という間柄。それと、父親が指導者のためのインストラクターをやっていたとき、米子北高のコーチの方が講習会を受講されていて、そんな縁もあって僕の進路の話になったらしいんです。「息子さん、どうするんですか?」「いや、まだ決まっていないんです」という感じで。「だったら、うちに来ませんか?」と声をかけてくれたのがそもそものきっかけです。僕自身、高校でサッカーを続けるかどうか、正直、迷っていました。でも、スポーツ推薦で入れてもらえることになってサッカーを続けることにしました。
──米子北高での3年間は、「大きく成長した」と話していましたね。
 そうですね。でも、いろいろな壁がありましたよ。壁を越えたら、すぐに次の壁が来る。試合に負けたら点差×10倍分だけダッシュが増えるとか、とにかく走りの練習がハンパなかった。でも最後の高校選手権だけは、逆にのびのびできました。負けた時点で引退だったので、もうつらい思いはしなくてもいいから。
──厳しい練習を逃げずにやり切ることができた理由は?
 一人で乗り越えたというより、みんなで励まし合って乗り越えたという感じですよね。誰かが「もうあかんわ」となったら、他の誰かが持ち上げたり、走りの練習でも一人が遅れそうになったら、そこまで戻って一緒に引っ張ってあげたり。僕自身もいろいろ仲間に助けてもらいました。米子北高では、みんなで力を合わせてやり切ることの大切さを学びました。僕らの代はヤンチャな選手が多いといわれていたけど、チームが一つになったときの力は本当に大きなものになった。そういう雰囲気を感じられたのはよかったです。サッカー選手としても人としても成長できたので、米子北高に行ってよかったと思います。
──米子北高では実家を離れての寮生活でした。ピッチ外の面でも成長できたのではないですか? 
 そうですね。僕らは「こんにちは」も、ろくに言えないような中学生だったから。最初に先生に会ったときも「ういっす」みたいな感じ。でも、あいさつをするときの上半身の傾ける角度とか、いろいろ厳しく言われたし、先生を見かけたら、遠くても大きな声を出してあいさつしたり、人としての礼儀を本当にたたき込まれました。


試合に出るために
自分自身の力で解決していく

早いもので、今年でプロ8年目を迎えた。
秋田豊や岩政大樹ら、アントラーズ往年の名CBがつないできた伝統の3番を背負い、チームにとって欠かせない存在になった。リーグ戦での通算試合出場は150試合に迫り、日本代表としても国際経験を重ねている。つい先ごろ行われた東アジアカップの中国戦で、目の覚めるようなロングシュートをたたき込んだのは記憶に新しい。
 そびえ立つ壁を前に、挑みもせず、避けることを選んでいた中学時代のような昌子はもういない。一つひとつ壁を越えていく。そのために、どうしたらいいか。そんな思考とともに闘争心があふれ出す。

──プロになって初めて感じた壁とは?
 プロの道に進んでくるような選手はそれなりに自信を持っていると思うけれど、しょっぱなにその自信を打ち砕かれるわけです。高校からプロになって、順調にいく選手はまれ。篤人さん(内田選手)はいきなり開幕戦でスタメンを獲ったし、同期の岳(柴崎選手:現ヘタフェ)はプロ1年目から試合に出たけれど、そういう選手はほとんどいませんよね。試合に出られるか、どうか。まず、そこに壁がある。高校時代と違うのは、こういう言い方はおかしいけれど、誰も手助けをしてくれません。試合に出るために、結局、自分自身の力で解決していくしかない。最初の壁をどう乗り越えていくか、それによってあとのサッカー人生が変わっていく。僕自身、プロ2年目から少しずつJリーグの試合に出られるようになって、でも、スタメンを獲るまで、また新たな壁があって。三歩進んでは二歩下がる、一歩下がる。そんなことを繰り返しながら、今があるという気がします。
──最初に感じた壁を乗り越えるために、どんなことに取り組んだのですか?
 大樹さん(岩政選手:現東京ユナイテッド)とか、浩二さん(中田CRO)とか、いろいろな先輩方にアドバイスを求めたりしましたけど、やっぱり自分で考えて行動しないといけない。アントラーズに来て、最初に度肝を抜かれたのが慎三さん(興梠選手:現浦和)でした。まったく歯が立たなかった。でも、紅白戦でCBのコンビを組んでいたイノさん(伊野波選手:現神戸)はしっかり対応していたし、慎三さんと互角に張り合っていた。それを見て「この差は一体何だろう?」って考えるようになった。すると、自然とイノさんに目がいくし、マネをするようになる。身近なお手本のプレーをよく観察しながら、いろいろ吸収していきました。
──伊野波選手も昌子選手もスピードのあるCB。もともとプレースタイルが似ているのかもしれませんね。
 逆に、イノさんも気にかけてくれて、よくメシに連れていってもらいました。毎日のように一緒にいたので、周りから「兄弟か?」ってからかわれていたほどです。イノさんはW杯ブラジル大会に行っていたので、僕が日本代表に入り始めたとき、当時の代表チームの雰囲気などを聞いたりしました。イノさんはいつも自分の先をいっている選手。イノさんの背中を追いかけてきたという感じはあります。今、チームは違いますけど、よく連絡を取り合いますし、僕にとってはよい先輩であり、お兄ちゃんのような存在です。
──今や自分のことに集中していればいい選手から全体を俯瞰して見なければいけない選手になりました。
 年齢的には下の選手も結構多くなりましたからね。僕がイノさんに憧れて、イノさんに追いつこうとしていたみたいに、今は下の選手に見られることも多くなっていると思うので、自覚と責任をもってやっていきたいです。
──昨年のJリーグアォーズの優秀選手賞の得票数ではトップでした。
 今年、清水から加入したワン(犬飼選手)が「昌子さんみたいになりたい」と話していたみたいだけど、そういうふうに思ってもらえるのは素直にうれしいです。ただ、そのぶん自分に対する周りの目はどんどん厳しくなるわけで、しっかり受け止めてやっていこうと思います。


チームを勝たせる選手に
なれるかどうか
それが今の自分の壁

──キャプテンマークを巻く試合も多くなりました。
 アントラーズのキャプテンというと、絶対的な存在として満男さん(小笠原選手)がいますからね。足元にも及ばないけれど、気持ちとしてはキャプテンマークを巻こうが、巻くまいが、まったく変わりません。チームの勝利のために全力を尽くすだけです。
──キャプテンマークを最初から巻いた試合は覚えていますか?
 覚えています。プレシーズンマッチだったら、昨年の宮崎キャンプでの横浜FC戦でした(Jリーグ DAZNニューイヤーカップ)。公式戦だったら、Jリーグの神戸戦(2017J1第11節)です。特に言われたわけじゃなく、ロッカーのところにキャプテンマークが置いてありました。「おまえがチームを引っ張っていけ」という意味だと自分なりに解釈して、堂々とやろうと思いました。満男さんもスタメンでしたけど、「今日はキャプテンマークを巻かせてもらいます」と試合前に話したら、「おまえなら大丈夫だから」と言ってもらいました。ただ、先頭に立ってカシマスタジアムのピッチに出ていくのはすごく違和感がありましたけど(苦笑)。
──アントラーズのキャプテンマークを巻くのはやはりプレッシャーになるでしょう?
 ものすごい重圧ですよ。これまでアントラーズが築き上げてきたすべての責任を背負い込むようなところがありますからね。キャプテンマークを巻いていた試合のとき、本田(泰人)さんが見に来ていて、少し話をさせてもらったんですけど、「年齢は関係ない。今のおまえなら向いていると思うよ」と言ってもらえて、うれしかったです。秋田さんからも「堂々と振る舞えばいいから」とアドバイスしてもらいました。自分がキャプテンマークを巻いているといっても大伍くん(西選手)とか、脩斗くん(山本選手)とか、アントラーズにはキャプテンマークを巻いていなくてもキャプテンみたいな選手が多い。そこはすごく安心していますし、自分で全部を背負い込むのではなく、頼れるところは頼ろうって思っています。
──今、越えたい壁とは?
 〝チームを勝たせる選手〟になりたいですね。それが今の自分の壁かなと思っています。例えば、満男さんやソガさん(曽ケ端選手)はチームを勝たせてきた選手ですよね。チームがうまくいかないとき、満男さんやソガさんだったら、どんなふうにするのか。普段からどんな姿勢で練習に臨んでいるか。自分にとって最高のお手本です。そういうのをしっかり引き継いでいくことで、チームを勝たせる選手になっていくと思う。あの人たちが積み重ねてきた実績を超えたいけれど、そう簡単なことじゃない。果てしなく高い壁だけど、少しでも満男さんやソガさんに近づきたいと思って取り組んでいます。
──その壁を乗り越えられたかどうか、「タイトル獲得」は大きな目安の一つになります。
 昨シーズンの最後の2試合ですよね。あそこで、しっかり勝ち切って、タイトルを獲ることが大事でした。「あ、壁を越えられる。ゴールや」と思ったら、まだまだ先がありました。壁を登ってゴールまで行ったと思ったら、雲で隠れて見えていなかったという感じ。そのときワッと驚いて手を離してしまうか、しがみついて、さらに登っていくのか、そこが問われる。昨年と同じような苦い経験をしないためにも、しっかり結果を残して壁を越えていきたいです。チームを勝たせる選手になるまでの道のりは長そうだなって感じます。何年かかるか、正直、わからないけれど、どんなに時間がかかっても成し遂げたいと思います。

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